私はずっと、自分の中から性欲なんてなくなったのだと思っていた。
誰かに触れられたいと思わない。
触れられることを想像すると、ゾッとする。
だから、性欲そのものがなくなったのだと思っていた。
でも、そうではなかった。
快感への好奇心は残っている。
自分の身体が何を感じるのか、知りたい気持ちもある。
それでも、人には触れられたくなかった。
以前の私は、嫌なときにも「嫌だ」と言えなかった。
パートナーから求められたとき、寝たふりをしたことがある。
そのままやり過ごしたかったけれど、下着をずらされ、私の気持ちを確かめる言葉もないまま、行為が始まったこともあった。
そのときの私は、ただ早く終わってほしかった。だから、受け入れたふりをした。
我慢すれば、すぐに終わる。
そう思って、身体と気持ちを切り離すようにして、時間が過ぎるのを待っていた。
自分が触れられたくないときには、手や口で相手の欲求に応じることもあった。
そうすれば、自分の身体はこれ以上触れられずに済む。
いつの間にか私は、「応じること」を、自分を守る方法にしていた。
そこに、自分の快感を確かめる余裕はなかった。
自分が何を心地よいと感じるのか。本当は何をしたくないのか。
そんなことを考えるより、相手に合わせて、その時間をやり過ごすことを優先していた。
求められているはずなのに、大切にされているとは感じられなかった。
私の気持ちよりも、そこにある身体だけを求められているようだった。
女として愛されているというより、女として消費されているように感じた。
「ちゃんと拒めない私が悪い。こんなことは、よくあることなんだ」
そう、自分に言い聞かせた。
そんな時間が重なるうちに、私は人に触れられることを避けるようになった。
「性欲がなくなったから、触れられたくないんだ」
そう考えていた。
誰かとベッドに入りたいわけじゃない。
それでも、快感を求める気持ちは残っていた。
性欲があることと、誰かに触れられたいと思うことは、同じではない。
その二つを、私はずっと一つのものだと思っていた。
性欲があるなら、誰かとの行為を望むはず。
触れられたくないなら、性欲もないはず。
そんなふうに考えていたから、自分の中に残っている欲を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
私が失っていたのは、性欲ではなかった。
「誰かに触れられることへの安心」だった。
触れられる前に、私の気持ちをそっと確かめてもらえること。
途中で嫌だと思ったら、いつでもやめてもらえること。
違和感や怖さを口にしても、「相手を困らせたんじゃないか」と罪悪感を持たなくていいこと。
私が本当に望んだときにだけ、近づいてもらえること。
そうした当たり前の安心を、私はずっと持てずにいた。
だから今、人には触れられたくないと思う自分を、無理に直そうとしなくていいのだと思っている。
誰かとの行為を望まなくても、自分の中にある「性」まで否定する必要はない。
触れられたくない気持ちも、自分の身体を知りたいという好奇心も、どちらも今の私の本音だ。
一見矛盾しているように見えても、どちらかを打ち消す必要はない。
性欲はある。でも、人には触れられたくない。
それもまた、今の私にとって自然な性のあり方なのだ。