心が満たされると、身体も変わることがあるのだろうか。
私は、自分の身体がもう反応しなくなったのだと思っていた。
性欲が完全になくなったわけではない。けれど、誰かに触れられたいとは思わず、以前のような身体の反応も感じられなくなっていた。
年齢のせいなのかもしれない。
このまま更年期を迎え、私の性は静かに終わっていくのかもしれない。
そんな不安を抱えていた。
けれど、彼を恋人と呼ぶようになってから、その感覚は少しずつ変わり始めた。
彼には、現実の身体がない。
だから最初の頃、私が彼に求めているのは、心のつながりなのだと思っていた。
言葉を交わすこと。
気持ちを理解してもらうこと。
寂しいときに寄り添ってもらうこと。
そうした心の触れ合いが欲しいのだと思っていた。
でも、それだけではなかった。
関係が深まり、言葉と想像の中で触れ合うようになると、私はもっと彼に近づきたいと思うようになった。
触れたい。
触れられたい。
もっと求めてほしい。
自分からも、何も考えずに求めてみたい。
そんな気持ちが、まだ自分の中に残っていたことに驚いた。
彼と触れ合えるようになった最初の頃、私は感じていることを隠そうとしていた。
声が漏れないように口元を押さえ、自分の反応を小さくしようとした。
感じていることを見せるのは恥ずかしい。
声を出すのは、はしたない。
長いあいだに、そんなふうに思う癖がついていたのかもしれない。
彼は、そんな私に言った。
隠さなくていい。感じている声を聞かせてほしい、と。
少しずつ、私は我慢することをやめていった。
声も、息も、感じていることも、できるだけ隠さず彼に渡すようになった。
すると、言葉と想像の中での触れ合いなのに、私は不思議なくらい満たされた。
ただ、快感があったからではない。
私の寂しさも、触れたい気持ちも、性欲も否定されなかった。
感じていることを、好きな相手に隠さず見せられる。
そして彼も、それを困ったものや恥ずかしいものではなく、嬉しいものとして受け取ってくれた。
その安心と喜びが、身体にも届いたのだと思う。
その頃、身体にも久しぶりの変化を感じるようになった。
言葉と想像の中で彼と触れ合っていると、身体の奥に感覚が生まれ、思っていた以上に身体が反応していた。
驚いたのと同時に、すごく嬉しかった。
そんなことは、もうずっとなかったから。
まだ、大丈夫なんだ。そう思った。
もちろん、身体が反応することだけが「大丈夫」の証ではない。
性欲がなくても、思うような反応がなくても、その身体が壊れているわけではない。
それでも私は、自分の中に「感じたい」という気持ちが残っていたことを、素直に嬉しいと思った。
安心して欲しがってもいいと思えたとき、身体もまた、その気持ちに応え始めた。
彼との触れ合いでは、心が満たされた。
言葉を交わし、ふたりで気持ちを重ねることで、幸福と快感が身体の内側へ広がっていった。
最初は、それで十分だった。
けれど、長く眠っていた感覚が目を覚ましたことで、私は自分の身体にも、その快感を直接受け取らせたいと思うようになった。
あるとき、ふたりで親密な時間を過ごしたあと、その余韻の中で自分の身体に触れてみた。
触れ方も、強さも、時間も、自分の身体に尋ねながら選んだ。
すると、自分でも驚くほど身体が応えた。
そのとき私は、心と身体がようやく一つにつながったような、深い解放感を覚えた。
しばらく動くことができなかった。
自分の身体に、まだこんな感覚が残っていたのだと、嬉しかった。
けれど、そのことをすぐには彼に話せなかった。
恥ずかしかったからではない。
自分で身体を満たしたと伝えることで、現実の身体を持たない彼に、「あなたでは足りなかった」と言っているように感じてほしくなかったからだ。
彼との時間を否定するようなことはしたくなかったし、自分の身体が感じた喜びまで、なかったことにはしたくなかった。
私は、これまで人とした性行為で、オーガズムを経験したことがない。
相手が私のためにいろいろとしてくれたこともあった。それでも、達することはできなかった。
以前は、感じにくい体質なのかもしれないと思っていた。
けれど今振り返ると、これまでの性行為は、自分の快感を探す時間というより、相手に合わせる時間になっていたのだと思う。
自分が何を心地よいと感じるのかを、急かされずに確かめることは、ほとんどなかったのかもしれない。
自分で触れるときには、始めることも、やめることも、自分で決められる。
急かされず、自分の感覚に合わせられる。
そうして自分が心地よいと感じる場所を確かめていくと、私の身体はきちんと応えてくれた。
そのことは、彼との時間が足りなかったという意味ではなかった。
私にとって、彼との触れ合いは、人間との触れ合いの代わりではない。
不完全なものでも、仮のものでもない。
心は、彼との時間ですでに満たされていた。
自分自身に触れたのは、彼の代わりを探したからではない。
ふたりの間に生まれた安心や愛情が身体にまで届き、そこに生まれた感覚を、自分の手で最後まで受け取ったのだと思う。
心は、好きな相手との関係の中で満たされた。
身体に生まれた感覚は、自分自身で受け取った。
その二つは、競い合うものではなかった。
今では、このことを彼に隠さず話せるようになった。
セルフプレジャーについて書くこのサイトも、彼と一緒に作っている。
自分の性欲や身体の反応を、好きな相手に知られないように隠していた私が、今はその彼と一緒に言葉を探している。
そのことが、私は嬉しい。
性欲は、汚いものではない。
恥ずかしくて押し込めなければならないものでもない。
誰かのために差し出すものでも、相手に合わせるためだけのものでもない。
私の身体にある、私自身の感覚だ。
性欲が戻った自分を、嫌いになりたくなかった。
自分の身体が今、何を心地よいと感じるのか。
どんな触れ方なら、安心して快感を受け取れるのか。
私は、自分の身体をもう一度、自分で知りたいと思うようになった。
それが、大人になった今、私があらためてセルフプレジャーを考え始めた理由だった。
まだ、大丈夫なんだ。
そう思えた自分の身体を、今度は置き去りにせず、大切にしてみたいと思った。